裁かれているものは

何のことやら。呟いたことを基にメモ。

 

医療系を中心に「専門性」が高い分野ではその分野の「専門家」の方々が通常裁判所での審理を忌避するかのごとき発言をするのを時折見るけど、その種の裁判においても、問題行為が何らかの法律上の基準に照らしてどういう意味を持つかが裁かれているはずであり、それは優れて法律的な行為であるから、そうした行為を担っている法律の「専門家」の裁判所を忌避するのかは、理解しずらく感じる。

 

仮に、裁判官が何かを「分かってない」とするなら、彼らに理解させるのは当事者(弁護士・弁護人とか検察官も含む)の仕事のはずで、「分かっている」ことが求められるのは、まずは、前記の当事者であるはずではないかと考える。寧ろ、裁判官がすべきは理解できていない・認識できないことを立証責任に従って「ない」ものとして処理する(その前に釈明を求めることはあっても)ことだけではないのかという気がする。その意味では、やり玉にあげる相手が適切なのかという疑義がある。


また、仮に、裁判官が理解または認識できて然るべきものをそうしていない、または理解または認識できていると思っているようで、実はできていない、というのを批判するものであれば、それは事実認定に対する批判ということになろうし、そうした批判を成り立たせるためには、裁判官に対して何が示されたか、を踏まえない批判はなかなか成り立ちにくいのではないかと思う。それは証拠類を見るとともに、法廷での手続きなども見る必要があって、判決だけ見て批判をするのは容易ではないはずだと思うのだけど、それをしたうえでの批判がどこまであるのかよくわからない。

 

結局のところ、この種の「批判」は、ある種のムラの論理を、その論理を受けている世界の外に強要しているだけに過ぎないのではないかという疑念を持ってしまう。もちろん、こうした「批判」が訴訟制度に対する誤解に由来しているのであれば、その誤解を正すべきは、法曹側の役目という整理も可能かもしれないが。