公開すればいいのか

時事ネタというにはやや遅きに失するかもしれないが、呟いたことを基に現時点の考えをまとまらないままではあるが、メモしてみる。

 

きっかけはこちらの報道。

news.yahoo.co.jp

民事裁判の全判決をビッグデータとして活用できるようにするため、法務省が新たな仕組み作りに乗り出すことがわかった。近く省内に有識者会議を設け、必要な法整備を議論する。膨大なデータに基づいた判例分析を可能にし、紛争の早期解決や予防などにつなげる狙いがある。

 

どういうことであれ、特定の施策には、利点の裏側に欠点や懸念すべき点があると考える。

 

まず思うのは、判決データが公開される際に、仮名処理が「甘い」と、結果的に特定されてしまい、訴訟があった事実などが明らかになってしまうということ。過去の勤務先で関わった訴訟の判決文について、商用データベースに掲載されたものの、当事者表示以外のところの処理が不十分で、結果的に特定可能だったという事例があった。その種の事例が生じるのではないかというのが、まず懸念されるところ。

 

次に、くまった先生からご指摘があったが、事件番号を介して、第三者が証拠なども含めて閲覧謄写可能となり、そうしたプロセスから出た情報が、濫用的に使用されることも懸念される。

 

こうした行為を通じて、訴訟そのものの提起や、訴訟における攻撃防御に、萎縮的効果が生じると、裁判の公開の要請がよりよく満たされたとしても、当事者の裁判を受ける権利の実質的な侵害となることも想定される。不競法上の手段の活用は想定可能だが、要件を満たさない情報も存在するのが通常であり、より広く非公開にできる道が開かれるべきだろうと考える。

 

結果的に、訴訟から仲裁などのADRへ、という流れも考えられるが、仲裁は仲裁合意があるのが前提で、不法行為構成の場合は、その手が使えないことも想定されるため、効果は限定的だろうと考える。

 

公開されることは、それを分析してなにがしかの情報を引き出すご商売の方々及びその商売を利用できるだけの資力のある方々等にとっては有用なのかもしれないが、それがすべての当事者に出来るわけでもないし、そういうことができることが常に有用とも限らないように思われる。そうであれば、上記のような想定される弊害も考えて、適切なバランスが保たれることを望むばかり*1

 

*1:こういうことをいうと、公開万能教徒の方々から米国の訴訟のような例を挙げて批判が来そうな気もするが、訴訟の社会におけるあり方がかの国とこちらとでは異なるので、他国の例をもってとやかくいうのが適切とは思われないことを付言しておく。