図書館で借りて移動中の電車の中で目を通したので感想をメモ。「乗り鉄」の巨人?2人を比較して論じたもの、ということになろうか。両者の片方にでも興味があれば、目を通して損のない一冊。文章も読みやすいので、読むのも苦にならないはず。
僕自身は、高校の時から百閒の文章を主に旺文社文庫で愛読しているが*1、宮脇氏については、当時愛読していた北杜夫のエッセイで、同氏の編集者にして隣人として出てくるのには接していたし、文章自体も、最長片道切符の旅については、読んだ記憶がある。そういうことが作用したのかしないのか、高校・予備校時代には、「乗り鉄」の友人たちに付き合って、大垣鈍行やムーライドながらに乗って出かける等したことがあった*2。こちらもある程度は鉄分を有しているのだろう。
この2人に同時に接するようになった著者は、本書で両者の人生を追走する形で、両者を比較しつつ論じている。鉄道紀行文を書いていること以外には、両者は、「お坊ちゃま」として育てられた東大卒のいわばエリートであることは共通するものの、時代にしろ立ち位置にしろ違うことが多すぎるという気がするが*3、異なる点についての著者の解釈の仕方が興味深かった。
生きている時代という意味では、百閒は、二次大戦の時期を別にすれば、鉄道の発達が上り調子であった時期を生きたため、天真爛漫に鉄道に接することが出来たのに対し、宮脇氏は、百閒死後の時期に、鉄道の斜陽化に直面したため、ある種の含羞をもって鉄道に接していたというのは、大いに納得するところだった。
また、立ち位置という意味では、作家というか随筆家としての百閒が、難渋しつつも、他の文章同様に感興の赴くままに文章をつづっているかの如く見えるのに対し(実際には、そんな簡単な話ではないはずなのだが)、もともと名編集者として活躍していた宮脇氏は、売り物になる文章として、読んでためになるものにしようと苦吟していたというのも、これまた興味深かった。