某報告書について、一読して感じたことを、呟いたことを基に備忘の為のメモ。
僕自身はそもそも受像機自体持たないし、問題の作品に接点のない人間だが、故人や脚本家の方のネット上の投稿やニュース、今回の報告書などを見て*1、特に印象に残ったことを、現時点での印象として、メモしてみる。
今回の報告書は、結局のところ、ある種の「禊」というか、アリバイ作りとして現場が「次」に向けて動きやすくすることだけを目的としているのではないかという印象が残った。冒頭に、本件原作者の死亡原因の究明を目的としない旨正面から書いた点や、別紙にある現場の方々の「本音」からそういう印象を受けた次第。前者の点については、結局故人という個人の内心を推し量ることの限界はあるがあるのは確かとしても、それをもって先のような言明に繋げるのは、今回起きてしまった事象に対して正対せずに「逃げて」いるかのごとき印象を与えるし*2、調査の限界として指摘すれば済む話なのではないかと感じる。後者の点については、生の声をそのまま出すことが、どう受け取られるかを考えていないようにも見え、それは結局のところ、外の「素材」の提供者よりも、内輪の行動の自由を優先するのが、報告書を作っている側の内心での優先順位なのだろうと感じた。
もう一点、報告書本文での提言で、原作者との早期の契約締結ということが書かれていた。これ自体は、第三者委員会としての提言としては、直ちに不適切とは言えないのだろう。とはいうものの、どういう内容の契約書を締結したとしても、規定した内容が守られなければ意味は少ないのではないか*3。報告書別紙にあった現場の方々の契約書を忌避するような本音等からすれば、何を定めても、どこまで守られるか疑義が残るのではないか。そうなると、そうした「手合い」と対峙する側にできるのは、少なくとも短期的には、そもそも関係を持つことそれ自体を避けて通るくらいしか残らないのではなないか*4*5。また、締結したその種の契約の履行について、締結した契約書の定めの通りに物事が動くよう、逸脱を防ぐ仕組みを内部に作り、そうした仕組みが十全に機能するようにしなければいけないが、こうした報告書が出てしまう時点で、現にそうした機能があるとは思えず、これからそういう機能を内部で確立できるか、悲観的に考えざるを得ない。仮にこうした状況を変えようとするのであれば(誰か「中の人」がそう思うかはさておき)、企業風土そのものを変える必要があるが、それは「上」からしかできないのではないか。
この種の事態は、程度はさておき、今回が初めてではないように見受けられる。上記の点に対する対策が講じられることが今回どこまで期待できるのか、こうした報告書の内容からすれば、多くを期待できないのではないだろうか。外部の原作者を扱うときの態度を根本的に変えない限り、おそらく今回のようなことは、何らかの形でまた起きるのだろう。こちらとしては、自分の愛する作品がそうした被害にあわないことを祈るしかない。