振り回す言葉の意味,内実,外延を意識すべきではないのか

謎な表題で恐縮だけど。昨今のあれこれを見つつ,既に呟いたことも含め,思ったことをメモ。

 法務という企業内の機能(部署名はさておき)であれ,弁護士であれ,これらの職能(という言い方が適当かどうかはさておき)にいると,形態はともあれ,言葉で勝負することが多いのではないかと考える*1

 

言葉で勝負(勝負という言い方が良いかはさておき)するとなると,その言葉の意味あい,正味の内実(建前と本音でいえば本音の部分),それと,その外延について,意識することを心がける必要があるのではないかと感じるところ。

 

法務について,つきまとう,「攻め」,「守り」*2とか,「戦略法務」とかについては,そもそも意味合いが厳密に定義され,それが共有されているとはいい難いように思うし,さらにいえば,そういう状態が現出可能とも思われない。ある種の評価の入る概念のように見えるけど,評価の時点,評価する文脈によっては,同じものについての評価が異なるものとなる可能性もあると思うから,一義的な定義自体不可能なのではないかという疑念すら抱くところである。

 

そんなのでいいのか,という疑問を個人的には覚えるところであり,仮に何らかの理由でこれらの言葉を使うのであれば,その点について,自覚的でなければならないのではないかという疑問も感じるところ。

 

もっとも,既に指摘がTL上でなされているように,これらの概念は,組織または職分の拡大または防衛の目的で,法務機能に対して理解の十分でない「素人」相手に,ある意味意図的に使う事が多いのかもしれない。時としてそういうことが必要なことも,理解可能ではある。しかし,そういう場合に,その種の文句を,「目くらまし」として使っていることをどこまで自覚しているのか,そうした使い方をしている自分自身がそういう「目くらまし」に踊らされていないか,縛られていないか,は不断の吟味が必要なのではないかという気がしている*3

 

要するに,「ためにする」目的で振り回す言葉であれば,そういう使い方をしているということに自覚的であるべきであり,自己の振り回す言葉の正味の意味,本音の内実,どこまでの意味合いを含むかの外延,については,自覚的であったほうが望ましいのではないか,という気がするのである。

 

これらの点について,あまりにも無邪気に見える言説に接したので,脊髄反射的,でもないが,一応メモしたくなって,メモしておく。まあ,カリスマ性もないので,ごまめの歯軋り程度でしかないが。

*1:言葉以外の力関係で勝負が決まる状況があることも否定はしないが,それはおそらく自己の関与の埒外になることが多いと思うから,本エントリとの関係では無視する

*2:「攻め」に対しては「受け」ではないのかという疑問はあるが,それは脇へ置く

*3:ここで丸山真男の「顕教」と「密教」の例えが脳裏をよぎるのだが…。