あれとそれの間

脊髄反射的な呟きに基づく雑駁なメモ。こちらの体感に基づくものなので、別異の解釈その他があり得ることは言うまでもない。

 

#legalACでの足立先生のエントリでの、この一節が、特に印象に残った。

準則化されていない「べき論」は、法務・コンプライアンス部門が依って立つべき規範たり得ません。

個人的には同意するところ。この辺りを理解せずに倫理周りの話がこちらに来て困ることがあるので、余計にそう思う。

ここで問題なのは、倫理とかの準則化されていない言葉で他人を縛ろうとすることの正統性のなさと考える。要するに、自分の「お気持ち」でしかないものを振りかざしているのと傍目から見て区別がつかないということになろう。

普段、企業内法務が、自社の他の役職員を行動を規制する結果となる物言いをすることが許されるのは、そうした物言いの背後に法律とかのある程度の正統性のある言葉があるからと理解している。そうした正統性を勝ち得る過程でもともとの発信主の「お気持ち」だけではないことが裏付けられることになるものと考える。

倫理とかについては、そういう過程を経ておらず、「お気持ち」とも未分化のままになりかねないから、そういうものを、そういう過程を経ていないことを認識せずに振りかざすことには、ある種の危うさを感じる。また、そういうものを、正統性ある言葉と共に振りかざすことで、結果的に、企業内法務の振りかざす言葉全体に対する信用を毀損することになって、それが、企業内法務が果たすべき職責を全うできなくなることに繋がらないか、そういう負の影響に対する懸念を覚えるところである。

もちろん、倫理とかについても、何らかの形で正統性を獲得することも想定され、そういう過程に企業内法務が関与するということも想定は可能だろう。そうしたことが有益な場合もあるだろうが、その過程に関与することで、「操作」をしている可能性、自分の「お気持ち」を正統化していないかという疑惑を持たれる可能性もあると考えるので、注意が必要と考える。

こうした懸念は、特に自分が社内で唯一の企業内弁護士資格者で、法務の部門長もしているとなると、こちらの言葉が「重み」をもって受け取られがちなので、余計にそう思う。

企業内で経理が金を、人事が人を握ることになぞらえるなら、法務は理を握るのではないかと思う*1。その際にこのあたりに無頓着だと、何らかの陥穽に陥るのではないか。そして、法務としては、「理」を示す言葉の力に拘ることは重要なのではなかろうか。その意味で、「上」の権威のみに基づき押し付けを図るのは*2、自らの言葉の非力さ、「理」の根拠薄弱さを自白しているに等しいようにも見えるので、その種の行為をするのには慎重であるべきではなかろうかと感じる*3

*1:法務が「言葉」や「物語」を握るのではないかとも考えたが、企業が社会に対して語る「物語」は経営者が語るべき物かもしれないし、「言葉」という意味では広報部門がそれを担うこともあるだろうから、寧ろ「理」と捉えるのが良いのではないかと感じる。

*2:別途ご指摘をいただいたが、もちろん、「上」に「理」を説き、彼らの言葉に「理」を盛り込むことも法務の仕事のうちと見ることも可能であろう。

*3:もちろん「上」との有効な関係を保つことは重要であるが、それは「理」に基づくものであり、一定の緊張関係を孕むものでなくてはならないと考える。覚えがめでたくなることで、自分勝手な、正統性のない規則を作り上げ、それを「上」の権威で押し通すような真似は、個人的にはしてはならないと考える。この点は所謂JTCであろうと外資(所詮出先で本国の顔色を伺うだけのところであれば、諸々難しい面が出てくる可能性は否定しがたいように思うが。)であろうと関係ないと考える。