本日もぶつくさ(2021/5/13)

例によって呟いたことを基にメモ。

新聞社の記者の方が、新聞の記事において政府の会合について言及する際に正式名称を書かずに、検索などがしづらくなる点に対して苦言を呈する呟きに対して、分かりやすさ優先で記載しているので、正式な名称についての需要なぞないから、そのようなものは不要であるという呟き*1で反応されているのに接した。

 

マスコミの社会的使命が、一般公衆に対して時事について正確に伝えることを目的とするのであれば、報道のネタ元にアクセス可能であることは、その使命に適うものでるとともに、報道の検証可能性を高めることになるはずであり、そのことは当該報道の信頼性を高めることにもつながると考える。その意味では、アクセスをしづらくすることに合理性があるとは考えられない。ネット時代であれば、所定の議事録などにリンクを貼るだけで可能なはずだし、文字数の制約とかの問題ではあるまい。

 

それにも拘わらず、上記のような応対をするということは、そのようにすることについて何らかの不都合(例えば、既に指摘のあるように、殊更に何かを歪曲した報道を意図的にしていることの発覚を恐れているとか)があるのではないかと疑いたくもなるし*2、読み手に対して「お前らが知る必要はない」というのであれば傲慢といわざるを得ないし、何よりも、知的にも誠実さを欠いていると考えざるを得ない。

*1:発言者に対して批判が向かうのは本意ではないので、リンクなどはしないでおく。改善可能性のない者に対して批判を向ける気にはならないし、そこまでのことをする義理も使命感も感じないので。

*2:報道源の秘匿が必要なこともあることは理解するが、上記の事案ではそのような考慮の余地があるとは考えられない。