見た目と中身の関係について

例によって、呟いたことを基に雑駁なメモ。

 

書面の見た目等を整える、とある道具*1について、法律がらみの良い書面を作るのに有用、というような言説に接した*2

 

素朴に疑問なのは、見た目と中身の良しあしはどこまで関係するのか、という疑問。そして、それ以前に、そもそも良い書面とは何かというのも、分かるようでわからない。

 

考えてみると、契約書の類は自社の権益が確保されて、危険が発現する結果が生しないことが良いのではないかと思う。多少誤記があったり、インデントがずれていたところで、それがこちらにとって不利な結果をもたらし得ないのであれば、関係ないし、そこを整えるのに労力を費やすよりも、時間に関する制約との関係で取引を早くまとめることの方が優先されることも相応にあるだろう。

 

また、裁判の類で出す書面であっても自分たちの権益が確保され不利益な結果をもたらさない方向に作用するのが良いのではないか。そうなると見た目との関連性には疑義があろうかと。作っている側(または作成を依頼している側)にとっては中身が一緒なら、見た目がきれいな方が良いと感じるかもしれないが、それは単なる感想でしかないのでは?とも思う。


あえて善意にとれば、見た目が整えられるくらい精査しているなら中身も精査されているだろうという推定が成り立つかどうかというところだろうが、その部分を道具を使って自動化したら、そうした推定自体が成り立たなくなるのではないか。もちろん、作る側が体裁を整えるのに回避可能な時間を費やすのを減らしたり、そうした作業に伴うストレスが減るというのは、その手の行為をする側にとっては大事なのだが*3、それは書面の良しあしとは直接の関係があるとは思い難く、良しあしとは別個に、価値あるものとして認識すべきではないか。どういう意図があるにしても、そういう混同は良くないのではないかと感じる。

*1:その道具自体及びその関係者に何かをいう意図はないので、リンクも含めて特定を割ける形はここでは取らない。

*2:言説の主に向かって何かを言う意図もないので、曖昧な表現で紹介していることを付言しておく。

*3:そうした利点を伴っているにしても、費用対効果の観点からの精査の対象になり得るだろうし、そこでいう「費用」は金銭的な出捐を伴うものだけとは限らないだろう。