写真展「古寺巡礼―土門拳が切り取った時間―」

写大ギャラリーでの写真展を見てきたので感想をメモ。

 

土門拳というと、日本の写真の歴史を見ると絶対に出てくる有名人の一人で、「絶対非演出のスナップ」というフレーズとかが脳裏をよぎる。スナップ写真とか報道写真とかとは一線を画する、氏の代表作の一つというかライフワークともいうべき作品がこの「古寺巡礼」。これまで、氏の写真については、本人の迫力ある風貌も相まって、どうも近寄りがたい気がしていて、見てみようと思ったことはなかった。とはいえ、好き嫌いとかは脇において、ある種の「教養」の一つとして、一度くらいは見ておいても損はないだろう、そう考えて見に行くことにした。

 

室内にある仏像などは黒バックで、モノを撮る感じで撮っている風ではあるのだけど、仏像のごく一部のアップとかもあって、しかも仏像の頭部とかではない部分を写したものもあり、氏が魅かれた部分を撮ったということなのだろうと思いつつも、何故この部分を撮ったのだろう?という気がしたものもあった。氏が、世間的な事柄にとらわれることなく、自分の思うように撮ったということの表れということなのだろう。

 

また、建物の外にあるもの・寺院の庭も含めて、年月を経て朽ちたり欠けたりしている部分があるものもあり、そういう年月の経過も含めて、魅力と捉えているのだろうなと思ったし、確かにそういう魅力もあるよな、と感じたのだった。特に屋外にあるものについては、風化などで輪郭とかも判然としなくなりつつある仏像などは「自然に還る」という感じがしていて、これはこれで良いのではないか、と感じたのだった。こうした感想を持つのは、こちらの年齢もあってことかもしれない。以前なら別の感じ方をしたのではないかと思う。そう考えると、見るべき時、というのもあるのかもしれない。

 

プリントを見ると、細部まで解像度が高く、撮影時期を考えると大きなフォーマットのフィルムで撮られたものなのだろうと想像がつく。おそらく、三脚も立てて、構図もしっかり決めて、光も選んで、じっくりと構えて、撮影に臨み、気に入らなければ何度でも足を運んだ末のもののであろうということが素人目にわかる感じで、ライフワークというにふさわしいのだろう。ただ、そういう注いだ心血の量が、どうしてもある種の「重さ」というか「圧」のようなものとして感じられてしまい、個人的には、やはり、そういうものへの苦手意識が払拭できなかった。何だか胃もたれする感じとでもいうべきだろうか。

 

最後に宣伝用のポストカード2種を写したものを貼っておく。