右であれ左であれ、思想はネットでは伝わらない。 / 坪内 祐三 (著)

とりあえず目を通したので感想をメモ。

著者の該博な知識量と対峙するには、こちらは勉強不足であり、その結果として、正直なところ、著者の本は、読んでも理解できない、または、どこまで理解できたのか不安なことが多い*1。それでも、文章のリズム感とか語り口を堪能するために買ってみた。この本についても、正直理解できた感じはないが、独特のものを堪能することはできた気がした。

 

この本で何を著者が書こうとしたのか、掴み切れた気は、まったくしないものの*2、おそらくは、「論争」を十全に行うための場となる「論壇」の終焉を描こうとしたのではないかと感じた。そう感じたのは表題と、あとがきの次の部分からだが。

 私はパソコンを持っていますが、自分自身ではブログやツイッターをやりません。

 しかしツイッターを読む(いや、眺める)ことはあります。そしてとても悲しい気持ちにある。

 何故なら、ツイッターの言葉には文脈がないからです。しかも、その文脈のない言葉が、次々とリツイート(拡散)されて行く。

 文脈がないのはまだましで、敢えてデタラメをつぶやきそれがリツイートされて行くこともある。

 私に対するその種のつぶやきを私は何度も目にしたことがある。

 本や雑誌に載せる文章には文脈が必要です。いや、文脈こそが命だといっても過言ないでしょう。

 そういう媒体(雑誌)が次々と消えて行く。これは言葉の危機です。

 

TL上で流れて行く呟きを見ていると、この指摘で言わんとするところは、理解できるような気がする。議論を十分にかわすためには、その前提としての文脈が共有されていることが重要なはずなのに、ネットの隆盛により雑誌が衰退することで、言説に文脈が随伴することを求めない場で文脈を伴わない言説ばかりが流布して、文脈があれば生じないような誤解に基づき、炎上が生じる、そういう事例はよく目にするような気がする。TL上に限った話とは思わないけれど、そういう形で言説が流布するだけになると、言説の背後にある思想について、十全な形で議論することができなくなるのではないか、そのことは、議論する手段たる言葉についての危機にもつながる、という問題意識なのではないかと感じた。

 

個人的には遺憾なことではあるが、おそらく、著者の懸念は今後ますます深刻化するのだろう。今回の感染症渦の下、感染リスクの回避低減のお題目の下に、ネット依存が強まることになると感じる。やむを得ない部分がないとは言わないが、それでいいのかと感じるところもある。とりあえずは、案じつつも、事態を見守るしかない。

*1:そういうことを気にせずに読める日記の類は楽しませてもらったのだが。

*2:余談だが、読んでいて一番印象に残ったのは、鶴見俊輔氏との2015年の対談で、鶴見氏がアメリカが全体主義化するという指摘(実際には氏の知人の指摘を紹介しているのだが)をされているところが、今の状況から見て興味深かった。