読まない意味・読ませる意味

呟いたことを基に雑駁なメモ。かつて似たような話をネタにしたことがあるような気がしないでもないが、その辺はご容赦あれ。

 

事業部門の人に契約書を読んでもらうことの意味についての言説がTL上にあった*1。そうした言説に端を発していくつかのことをメモしてみる。

 

契約書が当事者間で行おうとする取引を文書にした取引のルールブックである以上は*2、当事者が内容を理解せずに適切に行動できるか、行動する当事者の実務上の感覚を抜きにして、当事者ではない企業内法務がその内容の適否を一方的に判断してよいのか、という問題意識が出てくる。これらからすれば、取引の当事者たる事業部門は、契約書の内容を読むべきであるという話になりやすいように思われる*3

 

取引のルールということでスポーツに例えると、プレイヤーが本当にルールを全て把握しているのかという疑義が出ることもあろう。しかしながら、その場合でもルールの不知がもたらす不利益は当該プレイヤーに帰着している(と思われる)ことを考えると、内容を読まずに、かつ、書かれたルールに抵触することなく行動がすることが実際にできるとしても、そのことは直ちにルールを見なくて良い、理解しなくて良いという話にはならないし、読まないことにより生じうる不利益が想定可能であるなれば、それを避けるためには読むことを推奨するということになるのではないか。

 

他方で、上記のような「べき」論とは別に、当事者に読む能力があるのか、という問題も別途存在する。能力がないから読まない、という話になることもあるだろう。能力の有無は読ませてみることで確認するしかないのかもしれない。ともあれ、そういう能力の欠如の可能性も想定する必要があることは否めない。また、それとは異なり、取引自体についての主体性(オーナーシップとでもいうべきか)を書いているから、読もうとしないという場合もあろう。

 

読む能力がない場合には、書かれたルールの内容に従って行為ができるのか、という疑義も生じるところで、状況次第では、当該契約の締結に慎重になるべき場合も出てくるだろう。何らかの事情で、能力に疑義があるままで、締結をせざるをえない状況下では、重要度次第では、その内容を要約して理解させる(その際に情報のヌケモレ・誤解が生じるリスクはあるが、そこは覚悟するしかないのだろう)という対応が必要なこともあろう。そういう過程を経ることで「教育」することが求められる場合もあるかもしれない。

 

これとは異なり、主体性がないから、読まないで企業内法務に「丸投げ」するような場合は、上記のような読むべき理由を説いて理解を得るしかないのだろう。時間があれば逐条で読み合わせのようなことをして、教育するという手はあるのだろうが、時間の制約等から常に使える手と限らないところが難しい。

*1:某所でプログラムコードになぞらえている言説に接したが、日常言語と異なる言語なので、たとえとして適切とは言い難いと感じた。

*2:契約書がそれ以外の意味を持ち得ることもまた事実であり、紛争時の判断規範となることはその一例だろう。その場合は、紛争における事実判断者(訴訟における裁判官等)がその内容を理解できる限りは、当事者がその内容を理解できなくても良いということになる可能性もあると考える。

*3:読んだところでどこまで理解できるのか、という問いもあり得て、こちらについては、事業部門に対してだけではなく、企業内法務に対しても成り立つ問であろう。事業についての理解が心もとないところで、どこまで「理解」できているのか、という問いは常に脳裏にあるべきなのだろう。