あくまでもこちらから見える範囲でのお話ではあるのだが、一応メモ。
英文契約で当事者の義務を示すのにshallを使うのを避ける動きがあるという呟きに接した*1。発想は、僕ごときですら、想像には難くない。日常的な用語としてのshallの使い方とは同じではないし、別に義務を表すのに、他の表現だって考えられるから、それに固執しなくてもよいのではないかと考えても不思議はないと思う。
そうした呟きの中で、次の記事が挙げられていた。
この記事に接して最初に思ったのは、この内容の当否はさておき、仮に妥当なものであるとしても、所詮連邦政府の一部局におけるものなので、この文書で記載された方針の妥当する範囲はせいぜい連邦政府内部止まりであり、他方で、契約法は基本的には、州法の世界のはずだから、契約法の分野において、この連邦政府の文書に拘束される理由がどこまであるかはよくわからないのではないか、というところだった*2。
もう一つは、どうも書き手は法律家ではなさそうだから(法律家なら末尾の署名?のところにその旨の表記をするだろうし…)、そういう人の言説がどこまで契約書における表現に影響しうるのかというところも疑問だった。
こういう話題だと、Ken Adams("A Manual of Style for Contract Drafting"の著者)あたりはどういうかなと思ったら、先のエントリ?への言及のあるエントリを見つけた。こちらの指摘のうち、後者の点については同様のことを、より端的に述べている("First, he’s not a lawyer. Or to put it more specifically, he’s not a transactional lawyer. ")。
Ken Adamsがいうから正しいなどと言うつもりはない。個人的には、正直よくわからないと感じている。
こちらで観測可能な範囲で、shallの使い方を見ている限り、米人のlawyerの書いた契約書を見ても、当事者を何らかの形で拘束したいときにはshallを使うという程度の使い方をしているようにも見受けられるからである*3。例えば、準拠法条項とか定義条項とかは、当事者に法的な義務を課す内容ではなく、単に当事者間の契約を運用していく上での約束事(違反に対する制裁が観念されていない、という意味で法的な義務とは異なるはず)でしかないのに、そこにもshallを使っている例が多く見受けられるからそう感じる。
そういう意味で、nativeの間でもshallの使い方に一義的な理解がなされていないところで、non-nativeが不用意にshallを排斥しようとしても、「この外人はわかってない」と思われる危険も想定可能で、余計な説明の手間を生じさせることになると思われる。他方で、そこまでしないと得られないような便益が現時点で直ちに想定できるのであれば、手間をかける意味もあるのだろうが、こちらで見る限りでは、そのようなものがあるようには思われない。そうだとすると費用対効果の合わない話に付き合う必要がどこまであるのかは疑問に思う次第。この辺りは見えている分野次第ではある*4が、僕個人としては、様子を見ようかと思っている。