本日の何だか(2022/10/21)

例によって呟いたことに基づく雑駁なメモ。

 

「考え抜く」ということを企業法務において理想として掲げるという話に接した*1

 

実際に「考え抜く」ことがどこまで貫徹できるかと考えると、こちらの体感では*2、時間などのリソースの制約のある中では、むしろ、貫徹できないことが自明の命題なのではないかという気がする。そうであるからこそ、現実というよりは寧ろ理想というべきなのだろう。企業全体として見れば、考え抜こうが抜くまいが、適法な範囲で利益を上げ続けられれば良い、という見方も想定可能ではないかと思うし、考え抜くことそれ自体に企業にとっての価値がどこまであるのかは、自明とは言い切れないことも意識しておく必要があるだろう。いちいち考えなくても一定のパフォーマンスが出るように形を整えることの方が優れているという見方*3が成り立つ場合があるだろうし。

 

業務上の種々のプレッシャーや制約条件等から、放っておくと何も考えなくなりがち、な状況下や、マニュアル類が整備された結果として、あまり考えなくても目の前の業務が回ってしまうように見える状況下では、個々人が都度個別具体的な状況に即して、自分で考えることの重要性は唱導する必要があり、その意味では、このような理想を掲げることには一定の意味があるようにも思われる。制約条件などを口実に考えることから「逃げる」層が出ることも想定できることからすれば*4、こうした理想を唱導する意義は十分認められるところであろう。ただし、そうした一方で、そうした理想が理想でしかないこと、現実には貫徹しきれないことがあることも、同時に意識しておく必要があると思われる。特に、上司が斯様な理想に「酔って」しまい、最前線で厳しい要求に耐えている下の人たちの現実を直視しなくなると、下の方々は「醒めて」しまいがちと感じる。ある意味では当然の反応なのだろう。管理職としてはそのような状況は回避すべきものと考える。

 

*1:話の出元に対してどうこう言う意図はないので、リンクなどはしないでおく。

*2:こちらのこれまでの諸々に根ざしたものなので、異論等があることは言うまでもない。

*3:「下手の考え休むに似たり」という話もあるわけで…。

*4:こうした対応を許すと、考えないとどうにもならないときも、対応ができなくなることが想定され、そうした状態は企業内法務としての弱体化にも繋がりかねない…とはいうものの、それほど簡単な話ではないことも間違いないのだが。