「解」の出し方について

なんのことやら。呟いたことを基に雑駁なメモ。

 

企業内法務*1が事業部門からの質問に対する答えや助言について、評論家的であるとか無責任にNOしか言わないという批判は想定可能なところである*2。こうした批判に対しては、事業部門に「寄り添い」「現実解」*3を出す法務が求められることがある*4。そういう考え方が出てくる理由は理解不能ではない。

 

しかしながら、「現実解」を出す法務が常に正しいかどうかは、留保が必要ではないかと感じる。まず、正しいという評価をするためには、そこでいう「現実解」が「適法」の枠内に収まることが最低限必要なのではないかと考える。そして、ここでいう「適法」かどうかの判断対象には、いわゆるソフトローも含まれることもあるだろう。なお、いわゆるソフトローについては、強制適用される法規ではないことから、どの範囲のそれを「適法」であることを求める範囲に入れるかは、状況によって判断が変わるのだろう。何でもかんでも含めれば良いとは限らないのではないか。

 

また、これは以前経文緯武先輩が述べられていたことと記憶しているが、法的三段論法からすれば、「適法」判断となるかどうかは、「規範」に当てはめる事実次第で変わりうると思われるので、その点も留意が必要だろう*5

 

それと、「現実解」の対象となる「現実」なるものについても、現状の追認、特になし崩し的なそれであってはまずいということも認識しておくべきではなかろうか。現状についてそれが好ましいものではない時でも、こちらの行為によってその現状を変えることができる場合もあることも踏まえておくべきだろう。

*1:機能としてのそれであり、実際の名称は問わない。

*2:NOというしかないという事態も一応想定可能であることは言うまでもない。

*3:以下やたらに「 」書きが出るが、思うところあってのことなので、ご容赦願いたい。

*4:もっとも「寄り添った」結果として利益が出ないとか、回避可能な不祥事を回避できないのであれば、そうした行為に如何なる意味があるのかは疑問なしではないだろう。

*5:この点は、ある意味で両刃の剣ともいうべきところで、「規範」が同じであったとしても、そこに当てはめる「事実」をどう制御するかによっては、結論は、極端に言えば、どちらにでも転びうる可能性を示すわけで、企業内法務としては、自分たちの認識している範囲の外で、事業部門側にその点についての恣意的な制御をされていないか、警戒をする必要があることを意味することになろう。