ここ数日の何だか(2021年3月23日)

呟いたことに基づくメモ。自分の備忘のメモなので、具体的なTL上の呟きの特定を避ける形になっているところがあるが、その点はご容赦を。

  • 「気の緩み」という表現は、気が緩んでいてはいけないという価値観を前提にした表現だと思うのだけど、あくまで法的な拘束力のない自粛要請でしかないところでは、そのような価値観を前提にした表現は自明のことと言えないのではないかという気がする。あともう一ついうと、行動変容、という表現も何だか違和感がある。何様のつもりだという気がする。まあ、為政者がなすべきことをして出すべき結果を出していないから、彼らの物言いに対してそういう印象を持つわけだが。
  • このトシになると、中途半端さも含めての自分であることが良くわかる(汗)。駄目なものは駄目なりに抱きしめて自分だと。

  • 不適切である点について争いの少ない発言であっても、当該発言に対して如何なる批判を行うのが適切かというのは、判断が分かれるところと感じる。批判する側が自身が「正義」の側に立っているという「確信」があるときほど、自身が振りかざすこぶしの相当性には留意すべきではなかろうか。元発言の非難すべき度合いよりも、批判の非難すべき度合いの方が高くなってしまった結果、批判者の方がより多く支持を失うという事態も想定可能であるから、そうした注意が必要ではないかと感じる。この点、ある種、非難の相当性が、問題になっているところで、問題への賛否はさておき、この点が論点になっていることを認識できないのは、法曹またはその予備軍としては問題ありなのではなかろうかと感じる。

  • 文脈なしに発言が切り取られるからtwitterは危険だという趣旨のことを故坪内祐三が述べていたような気がするが(うろ覚え)、確かにその通りと感じることが多い昨今。 

  • 某先生のTL上での某行動に対する別の某先生の某呟きを見て、「北風と太陽」というのを思い出した。得るべき結果をいかにして得るかを考えて、相手方に対する無用な刺激を避けつつ、相手への相応の敬意を示したうえで、得るべき結果を得たという点でそう思った。その反面で、前記某行動に対して、何でもかんでも怒りをぶつければいいというものではないということも示されていたように思う。他人の行為をdisるだけでも溜飲はさがるだろうし、そこにも一定の意味はあるかもしれないけど、他人の動きを変えたいならそれだけでは意味があまりないことにも自覚的であった方がいいのではないかと思ったりもする。その際には当該他人に、当該行動を変える法的義務があるのかないのかについても検討をした方が良いのではないかとも思う。また、何をしても叩かれると思われてしまえば、聞く耳を持たれないことについても自覚的であった方がよいかもしれない。
  • 相手方に認識しづらい自分のトラウマに触る表現の削除を求めるのであれば、あくまでもお願いベースの話である方が相手方にとっては良いのではなかろうか。
  • SNSの件は、もともとかの会社を信頼していなかった側としては、やはり、という程度。この点、某氏が「中の人」たちの真摯さから擁護するようにも読める発言をされていたが、一利用者としては、そういう反応もあり得ると思う反面、別異の反応もあり得ると思う。いずれにしても錚々たる先生方がいてもああいう事態が生じるのは何故なのかという疑問への回答がなされるのか、そのあたりも含めて事態の収拾のさせ方については、興味深く見たいところ。