主権者を疑う ――統治の主役は誰なのか? (ちくま新書 1720) / 駒村 圭吾 (著)

一通り目を通したので感想をメモ。主権について考えるうえでは読んでおくべき本ではないかと感じた。

 

政治と法、特に憲法との関係についての本のように見え、学部時代は政治系だったこちらとしては、気にならないはずもなく、連休中の私的な課題図書として購入し、旅行のお供としたのだった(という割に旅行中には読み終わらず、本日読み終わったのだが)。

 

本書は4編からなり、最初の2編では主権者について論じ(第1編ではその神学的源流を手短にたどり*1、第2編では近現代での議論を紹介している)、第3編では民主主義について、第4編では市民社会を、それぞれ論じていて、それらを通じて「主権者国民」に関する問題を論じている、というところであろうか。

 

第1編については、政治思想史あたりの知識がないと*2読むのに骨が折れるかもしれないが、そのあとは、特に予備知識がなくても読み進めやすいのではないかと感じる。内容的には考えさせられることが多いので、見た目よりは読みごたえを感じた。各所に憲法の授業等で出てくる判例・裁判例が出てくるので、憲法と地続きの分野の話であることも認識しやすいと思われる。

 

著者の主張の重要部分は「あとがき」の中の次のようなあたりになるものと思われる。

私は、主権は、”取扱い注意”であるから、最後の「賭け」(つまり改憲)に打って出るのは慎重な上にも慎重であるべきだと述べた。一歩間違うと”革命”になりうるような「主権者」の登場をたのむ前に、統治上の諸課題を通常政治の枠の中でどうにか解決すべく、国民は「有権者」として、また「市民」として頑張るべきだ。

本書を読んで、これらについて、著者の議論には特に反対するものではないが、そのための方策として結論的に示される次のもの(項目名のみ上げておく)については、著者がそう主張する理由は、理解できなくはない反面、直ちに賛成できるかというとためらうものを感じた。

(1)「意思としての主権」を「ロゴスとしての主権」に改めて重心移動させること。

(2)主権と主権者を区別すること

(3)政治と法の対抗性を改めて意識して統治を設計・運営すること

 

特に「ロゴスとしての主権」をどうやって確立するのか、その前提としては、言語による批判が成り立つことが必要と思うが、それが、特に為政者近辺で、崩壊しているように見える中で、如何にして確立できるのか、現下の状況を見ると、個人的には疑問を禁じ得ない。長かった某政権以降、為政者が自分の言葉に責任を持たなくなり、言葉に基づく政治が崩壊したと感じるから*3、そのような疑問を持つのだが。

*1:ホッブス、ロック、ルソーあたりの説明をばっさり落としているあたりがある意味すごいと感じた。

*2:こちらも学部で習ったことはすでに完全に忘却の彼方にあるが

*3:そうした現象に関与というか主導したように見えるため、あの事件により、故人となった、かの為政者の罪は、その地位を占めていた期間が長かった分だけ、重いと感じる。