最近のぶつくさ(2024/12/3)

例によって益体もないメモ。

  • その断言はなぜできるのか、自分の見えている範囲に限界があることになぜ思い至らないのかと感じる実例に接した。状況次第で変わる部分がいかに多いか、ということが理解できていないのかもしれない。
  • 意見や理解を異にする相手に対して理解を求めたり行動を変えることを求めるのであれば、相手の「無理解」を糾弾しても実効性に欠け、益するところは少ないのではないか。自分たちが求めるものがなぜ必要か、相手の意見や理解を前提にしてもなおその結論に至るよう議論を組み立てて説明する必要があるのではなかろうか。相手に「考える」ことを求めたとしても、考える前提の事実認識が一定程度そろっていないと、望むような結論に至りようがないかもしれない。相手の「無理解」を嘆くのも、自分たちの「窮状」を訴えるのも、必要な前提を共有していない相手には響かず、結果的に何も得られないのではないか。
  • 同じ内容であってもどういう言い方をするか、聴かせたい相手との関係性がどうか、でだいぶ印象が変わるということを痛感する昨今。糾弾口調でいうのと、諄々と説くのとでは、同じような内容でも受け取られ方が異なるのはある意味で当然かもしれない。