やや時間が空いてしまったが、呟いたことを基にとりとめのないメモ。
しばらく前にボス弁による指導の可否の話題がTLに流れてきていた。世代論を含む形お言説だったが、今の重鎮層の先生が修習明けだった頃と比較すれば、実務に出る段階での最低線のレベル*1や実務のスピード感*2、複雑さの度合いが異なっているので、その辺りを踏まえずにその種の議論をしても意味がないのではなかろうか。
当然のことながら、(生き物としての)年齢の若い層の取り合いの中で、指導なんかしない、自分で学べと言っている業界には人が来なくなる可能性もあるだろう。特に業界入りするまでの負担が大きい割に、実入りが良くなってないとなれば。個々人の業務を超えた業界としての持続可能性を考えた場合、そうした指導を求める需要を無視しても仕方がないのではなかろうか。僕自身は事務所の弁護士ではないから直接の利害関係は今のところはないはずだが、インハウスで事務所の先生方に仕事を頼む側としては、業界として持続可能性は持っておいてほしいと思う。
こうした点について、当事者意識がないままに単に指導を受け身で受けるのが問題という指摘もあったが、下の当事者意識を育ちやすくする上司・ボスとそうでない上司・ボスがいると思う。やり方の差異がそうした違いを生じさせるのかもしれない。
個人的には、指導の内容もさることながら、なぜその内容を指導しているのか、問題点をどう改善すべきかが、見えてこない指導は、ちょっと辛いと感じることが、これまで多かった気がする。指導する側の自分自身の趣味とかお気持ちから離れた何かを示す必要があるだろうが、指導する側がこれらの点に自覚的でなければ、それらを示すこともしづらいだろう。自分が企業内で管理職として、曲がりなりにも指導する側になったときには、そうならないように意識しているが、指導を受けている側にその点が伝わっているか、あまり自信はない。
あえて部下に指導をするからには、指導をする側としては、指導した先にたどり着いていてほしいところがあるわけで、その先が指導される側にとって受容可能な範囲であり、そこにたどる道筋が到達可能な形である程度見せられないと、単なるハラスメントと受け取られかねないと思う。
加えて、指導に不必要なことは混ぜない方がいいのだろう。混ぜた「ノイズ」が指導内容それ自体を受容困難なものにする危険もあろう。
企業内でも後進の育成が求められることがあるが、そこでは育成した結果が求められていて、指導そのものが求められているとは限らないように思う。放っておいても育つならそれでもいいわけで。指導ができないとその点をマイナス視されることはあるだろうが、他の点も含めての評価になることが多いだろうと思う。