「法的思考様式」を求めて -35年の回顧と展望/平井宜雄

掲題の報告に一通り目を通したので雑駁な感想をメモ。

 

きっかけは、いつもお世話になっている経文緯武先輩のこちらの呟き。

1996年の講演について、1997年に出版されたもので、今更読む意味があるのか、訝しく思ったが、学識ある先輩が、ここまで仰るのだから読んでみようと思い、刷して読んでみた。個人的には、縦書きの文章は、PC画面上では見づらく感じるので、印刷した。

 

平井先生*1が研究生活に入って以降の学会の状況とそこから受けた影響に関する回顧と、展望として若い研究者への要望が語られている講演録(講演後に加筆されているが)という内容だった。講演録がベースになっているので、それほど難渋ではない。

この中で平井先生は、「還元主義」(法律学は、究極的には社会現象を扱う学問一般に還元されるとする考え方)と「自立主義」(法を社会の他の領域から相対的に独立した「自立的」な領域と捉える考え方)とのバランスを取ることの重要性を説かれていた。

 

平井先生が振り返る法律学会の状況についての記載は、前提知識ー特に社会学及びその周辺に関する部分ーを欠くこちらでは、理解が十分できなかった。他方で、若い研究者への要望についても、既に四半世紀以上前に出された要望であり、その背景事情も必ずしも理解できなかった。ただ、3点挙げられている要望については、なんとなく理解できた気がした。

1つ目の「漢意(からごころ)意識」ー明確に書かれていないが、西洋からの借り物の概念で議論をしていることを意識すること、というところだろうかーと同時に「篤胤の悲喜劇」ー「漢意」を排したとしても、知識を体系化・理論化するのは、所詮別の「漢意」の力を借りなければならないのが日本における知識のあり方、という指摘ーを常に念頭におく必要があるのではないか、という指摘は、理解しやすいところと感じた。

2つ目の「最新流行主義」への警戒を怠るな、という点は、特に、それがしばしば「遅れている」が故に排撃すべきという主張に連なる、という指摘は、思い当たる節が今でもいくらでもあるわけで*2、ある種の普遍性を持った話なのではないかと感じた。

3つ目の「植物主義(専門がその研究の実質的な内容に即して定義されるよりも、どこの大学のどの学科を出たかということによって定義されるという考え方)」の排除というのも、同様に、今なお、当てはまりそうに感じる。ある種のレッテル貼りといえるものだが、やってしまいがちという気もする。

 

上記のほか、印象に残った部分を引用してみる*3。なお、その中でも特に重要とこちらが感じた部分について、下線を付してみた。これらのあたりから、経文緯武先輩は、本稿を読むべし、と判断したのかもしれないと思うがどうだろうか。

ある意味で、凄く基本的な、それでいて忘れがちなことが指摘されていると思う。言葉で組み立てた論理に基づく意思疎通の割合の多い企業内法務という職種においても、重要な指摘と考える。冬休みという日常業務から距離を置きやすいときに目を通すのは、適切なのではないかと感じた。

社会現象のような複雑な現象を眺める場合の重要な注意点の一つは、対象を「複眼」的にとらえるということです。Aという視点を採用することは、非Aという視点を選択しなかったことですから、いかなる文脈の下に、Aをなぜ、採ったのかが常に意識されていなくてはなりません(このような見方は一つの人間関係をあらゆる角度から吟味してその多様性を主張する法律学的思考の核心でもあります)。

特に、『「文章の意味とはその検証可能性であり、検証不可能な文章は『無意味(宮meaningless)』である」という命題は、研究会では広くー少くとも若い世代ではー信奉されていました。

法律学の教授は、何よりもまず法律家の共同体の一員でなくてはなりません。したがって、ゾルレンとしては、彼または彼女は、問題を発見し、その解釈のために「議論」に参加し、解釈論上の主張をし、その根拠を示し、反論を受け、再反論を行う能力、つまり言いかえれば、判決や準備書面を書き、法廷弁論をし、鑑定書を書く能力をも持たなければならないと思います。しかし、大学にいる者の特権は、実務家のように一定の期日までに解決する必要はなく、時間が与えられていることです。だからこそ問題を理論的につまり「根底的(radical)」に問い、考えるのが、大学にいる「法律家」の義務でなければなりません。そしてラディカルに問うことこそ、最も「実用的」(これこそ法律学の価値の一つです)なのです。という意味はこうであります。

人間の知識は絶えず成長します。昨日思いも浮ばなかったことが、今日学んだ知識によって思いつくようになります。したがって、将来いかなる問題が生じるのか、その解決策は何かについて、現在の知識をもとにして予測することは論理的に不可能です。この点において、過去に生じた問題、それをめぐる議論・解決の試みなどーそれについての知識量は加速度的に増大しているとはいえーが原理的に探索できるのとは全く違うのです。しかし、最も「根底的」に問題を考えてその結果を明確に言語化しておくならば、将来未知の問題に直面したとき、われわれはその言明を手がかりとしてそこからの演緩や類推やそれをヒントとする洞察により何らかの解決策を推測し、議論し、見出すことができ、あるいはより適切なものにすることができるのです。これこそ理論家の最も実用的な価値ある仕事と言わなければなりません。現在では大学にいる人よりも、官庁や企業などははるかに膨大なファースト・ハンドの情報をもっています。しかし、これらの人が「根底的」に考えるのに難しい場合が少なくないかもしれません。そうだとすれば、ーたといセコンド・ハンドの情報にせよーそれを基礎として「根底的」に考えるのは大学にいる者のみに与えられた特権であり、課せられた義務なのです。そして、このように「根底的」という意味でのラディカリズムが重要だと考えるのは、私の抱く民法(解釈)学の方法論(もっとも私は方法論の言葉を、次に述べる理由であまり好みません)につながっているのです。

「議論」と不可分である法律学の世界では、「発見のプロセス」と「正当化のプロセス」とが厳密に区別されるべきであります。前者においては、いわゆる「方法」は全く存在しません。既存の判例学説・比較法的研究上の成果・知識はもちろん、正義への情熱、バランス感覚、社会への憤想、いや偏見や名誉心といった「俗物」根性さえも、ある法律論を「発見」するための源泉として許されるのです。「正当化のプロセス」においても、基本的には「方法」はありません。もちろん、「発見」の結果えられたものを法律家共同体の「議論」の場に登場させるには、そこにおける共通の言語(法律用語や受容された言明)におきかえ(そのためには共通の言語や言明を学生に教える必要がありますが、これこそが教師の役目です。したがって、厳密に概念の定義や要件効果を教える必要があります。「事例をあげて説明し学生に自分で概念の意味や定義を考えさせればいい」というような教え方は私のとらないところです。ところが、そういう考え方が「概念法学」だという批判を受けたのにはいささか驚きました)これまでの「議論」の蓄積の到達水準に立脚し、かつそれとの関係を明確にする必要があると共に、問題発見とその解決についての自らの主張の根拠を言明によって「正当化」しなければなりません。そして、その正当化の根拠は絶えず反論にさらされなければなりません。大先生の説でもなく、最高裁の判決でもなく、反論を耐えぬいて生きのびた根拠だけが、その限りで正当化の根拠となりうるのです。正当化の根拠を常に「根底」から問い続けるのが大学に在る者の任務だとすれば、民法に関する、いや法の領域だけでなくして、ありとあらゆる知識が総動員されなければならないと私は考えます。

 

*1:こちらは、東大法学部で債権各論(民法第2部)の講義について履修登録し、授業にはほとんど出なかったが、単位だけは得た。成績が可だったが。そもそも法律に興味があったわけではなく、最低限のお付き合いしかしない方針だったので、単位があっただけでOKと考えていた。卒業後10年経って、そうした対応故の低いGPAに泣かされたわけだが。

*2:この点について、あれこれ言いだすと、こちらが良く言うような特定方面への懐疑をまた述べることになるので、省略する。

*3:pdfからのcopy & pasteがうまくいかなかった部分はこちらで手打ちした。