最近の何だか(2020年5月29日)

いつものメモ(投げやり)。

  • 某飛行隊は、「最前線」*1への「慰問」にはなったのかもしれないが*2、時機という意味で、もろもろのあざとさというか姑息さを感じずにはいられない。みんなが笑顔になったから良い、という話で片づけてよいとは思いづらい。むしろその種の印象を与えようとする意図にもっと目を向けるべきではないのか。
  • どうも片仮名系の技術には消極的というか積極的になれないのだが、よく考えると学生の頃から(90年代)から、新規の技術に対しては、そういう対応だったことを思い出した。別に老化というわけではなく元からそうだったのかと変に納得。
    今までの「やり方」を変えようとするときに、それらを一方的に貶めるやり方は、それ相応の必要があってその「やり方」を取ってきた経緯に対する敬意を欠いていて、好みではない、というのが、積極的になれない理由の一つなんだろう。外部の評論家的に上から目線で言われても、と思うわけだ。最近の片仮名方面の技術の「中の人」は、これまでの企業でこれまでの「やり方」について十分学んだ人があまりおられないのか、その辺りの間合いを理解できていないという気がして、余計にその種の方々の言説には、距離を置くようになっている。なんでもかんでも技術の優位性でぶん殴れるほど人間は簡単にはできていないと思うので。
  • 意味があるかないかというのは、意味を見出す側の主観の問題でもあるので、自分にとって無意味に見えるからというだけで、無意味と断定的に批判するのは、単に無知を自白することになりかねない気がする。同様に、「止まっている」「進んでいる」などというのもモノの見方の問題に帰するところがあり、いかなる尺度からその種の言辞になるのかの説明がないところで議論をしても、結局のところ、主観的な「お気持ち」を述べているのと大差ないのではないかという気もする。また、何かすれば「進む」というものとは限らない気もする。有害な施策は事態を退行というか悪化させる可能性もあるのだから。
  • ある特定の施策を講じるというのは、実現すべき諸価値(一つではないことが多い)をどのように獲得するか、という検討の結果であり、特定の価値だけを増加させればよいという単純なものであることは少ないように思う。手間がかかる、ということについても、手間をかけることに意味がある場合もあるので、「ペイン」とか片仮名で表現してそれを取り除けば万事めでたしというようなsimpleな議論ではないのではなかろうか。

*1:ただし地理的に限られていてそこのところはどうなのか、と思わないでもない

*2:真に戦っておられる方々はああいうものを見る暇がなかったのではないかという気もしてならないのだが。